昭和50年06月06日 朝の御理解

 御神訓 一、「神は声も無し形も見えず、疑えば限りなし恐るべし疑いを去れよ。」

 私共がこうして神様を信じて信心の道を進まして頂いておる訳ですけれども、どれだけ私共が神様を信じておるか、疑って居ないかと言うと、私共は心の上に頂いておるおかげ、又は形の上に現れて来るおかげ、そのおかげの度合いが神様を信じておる事だと思います。心に感じておる、心にどれだけの安心と安らぎを頂いておるか、形の上にどれだけおかげを現しておるかと。
 それが私くしは自分が神様を信じておると言うバロメーターになる。それは信じております、信じておりますと言うてもね、まぁだまぁだ限りなく、この神様を解らして貰い信じさせて貰う、もうそれこそ限りがないです。皆んなね信じておる様にありましても、疑ってはいない様でありましても、矢張りまぁだ本当の疑いを去ってしまって居ないと云う事を厳密に申しますと、只今私が申しました様な事になります。
 合楽に御神縁を頂いて、特にこうして朝の御祈念でも参りになる方は、本当に神様を信じておる、それも間違いないのですけども、厳密に自分の信心を、例えば安心の時もありゃ不安の時もある、そう言うそれが既に神様を信じ切ってない証拠です。先日神愛会の時に、福岡の宮崎先生と言う方が見えられまして、こん度まぁ金光教の大改革と言った様な事がなされるだろうと、と言う準備のいろんな活動があって居ります。御取次成就信心生活運動と言う様な運動が二十五年間続けられて来た。
 ところが果たしてどれだけの信心生活が御互い出来て居るか、又その運動がどんな展開を見ておるかと、言う事を二十五年経った今日を思うて見る時に、出来ていないと云う事活動が。活動と言うのは生きた働きと云う物がが出来て居ないと言う事。そこにまぁ愈々本気で気付かせて頂いて、是ではならない是は大きな改まりが要るんだ、改革的な物がなければならないと言う事にまあなって来た。信心生活運動はそのままですけれども、その内容を研討している。
 で今度全国の先生方、沢山ある中に百名余りを選ばれて、その百名余りの方達が今年一杯は、その事の研討をなさる事になるんだそうです。その中に九州から皆何十名か行くでしょう。その中に宮崎先生も選ばれておられるそうです。それで先日その会合に出させてまあー頂かれてからの、一つの焦点になる物。例えば真の道とか真の信心とかと如何に言うておっても、真のおかげが現れて居なかったら、それは本なもんじゃないと、こう云う事を言ってますです。
 私しはそう云う風な事が言えるとは、金光様はそれだけでも前進した事になるです。人が、例えばどう云う風に批判的に言うたり、非難をしたりしておっても、事実そこにお広前が生き生きとして、人の助かる場になっておるとするならばです、それこそそれは本当な物だから、その本当な物がその教会の何処にあるか、と言う事を研討するんだと言っておるそうです。それもあのー素晴らしいと私くしは言っておる。
 それを、先日聞かせて頂いたんですけれどもね、結局、如何に真の信心とか、真の道とかと言うて居っても、真のおかげが現れてなかったら、それは真の信心じゃないと。教祖様の信心は真の信心をすりゃ真のおかげが受けられる、もう是が決め手だとして見ると、今まで言われておった真の信心と云う物が、もう根本的に研討されなければならない事になって来た。
 今度惟も全国のやっぱりその問題を信徒としても、どう踏んまえその問題を踏んまえて、是からの信心を進めて行くかと言うその研討会と言った様な物全国から、此処から、こちらの方からは久留米の播磨さんと合楽から秋永先生と二人出席しとられます。で夕べ壮年部会に見えてその報告的なお話しを聞かせて頂いたんですけれども。最近の金光様の御信心と云うか、それは目覚まし御心境が進展しておられる。
 お進みになっておられると云う事は、最近金光様がお取次をなさる、その答えが必ずどう云う問題を持って行ってもです、御恩恵の中に起きた事ですからと仰るそうです。言うなら、金光様の御取次の働きの中に起きた事ですからおかげになりますと仰るそうです。私しはそれを聞かせて頂いて素晴らしいと思った。何を信ずるかと天地の親神様の御働きの中にある、その天地の親神様と言う方は、ならどう言う様なお方か。
 氏子信心しておかげを受けて呉れよと、もう只氏子の真実の幸せをのみ祈って下さる、思うておって下さる神様であると云う事が、先ずそれを信じ、それを解らなければならない。それが解らなければ、御恩恵の中に起きておる事だからとは言えないのです。御恩恵と言うてから、こげな難儀な問題になっとりますよ、こう言う悲しい事になったんですよと。例えば反発する人があるかも知れません。けどその悲しい事も困った事その難儀な事、その事すらが御恩恵なのです、なのですよと言う事なのです。
 私くしは最近合楽で言われとる信心が、愈々本当の所の言うならば、第一線上に躍り出て来たと云う感じが致します。ね、合楽の場合はそれを言っている訳です、ね。もうどちらに例えば転んでおってそれをおかげと受けいや、それをおかげと解らして貰うと云う事なんです。惟はその神様の働きを信じ、疑うた者には言える事でも出来る事でもないのです神様も。もういい加減なものじゃと、いえもう神も仏もあるものか、と言った様な事に迄なって来る訳なんであります。
 一切の事を金光様が御取次ぎのどう言う難儀な問題をお取次ぎをなさっても、御恩恵の中に起きて来た事ですからと、おかげになりますと断言されると云う事は、如何に神様を信じておいでになられると云う事かわかります。そこにはもう疑いの影もない事になります。そこ迄の信心をお互い進めて行かなけねばなりません。何処に参りましても、合楽は何時も焦点になる、皆んなが注目をしておる、関心を寄せておる。
 合楽の信心と言うか、合楽でおかげを受けておる事実を、それも内輪に内輪に話をしても、皆んながそれこそびっくりしてしまう。会が終わると必ず秋永先生所に何十人の者が集まる。そしてそれこそ目を見張ってその話を聞かれる、今時今その様な言わば信心やら、御比礼が輝いておると言う教会があるだろうか。以前は聞いておった、以前はそんな話を聞いた事があるけども、現代の金光教にそう言う事実がもし有るとするならと、合楽の信心を求め尋ねられると云う事です。
 次々に一日、月の内の一日分の御理解がおかげの泉と言う御本になって、毎月出ておりますから、まあそれを一つ買って読んで下さい。兎に角おかげを受けられない時には、お金は返しますからと、親先生は言われると言う程しの、言うならば確信を持ってあの御本が出ております。昨日も西岡先生に返事を出して貰ったんですけども、遠方から昨日三通手紙が来ております。
 その三通ともおかげの泉での御本によって、かくかくおかげを受けておると言うお礼状に、お礼のお初穂がどれにでも入っとりましたから、御神米を同封して送らして貰いました。その中の一人が言うて居ります事に、どんなに少なくとも十回位は読んで下さいと言う事が書いてありますね。私は毎日一回宛読みますと言うから、月に三十回読みよる。おかげ頂く筈です。そりゃ只読むと言うのじゃなくて三十回読めば読む程にです、有難い事だと深さ広さが愈々解って来る訳です。
 秋永先生のところに昨日五十何名の方が、お金をなら送って貰って良いでしょうかという人があってね、五十何冊、何人分の注文受けて来たと、昨日言っとられます。本当に秋永さん、あなたの言う話がもし本当とするならばです、今の現在の金光教の中に、そう言う働きがもし現れとる、教会があるとするならばです、是はまあ言うならそれこそ、大変な事だ。それこそ金光教の改革は、言わば合楽的なところからしか起こらないだろうと言う事になるのです。
 第一此処の例えばお初穂の、皆さんお供えなさったお下がりが硝子張であると言う事です。むしろ親先生は知らっしゃらんけれども、それを総代さんが聞いて、そしてそれが様々な面に行使されたり、それが管理されておると言う事を言われたらもう、愈々びっくりしてしまわれた。その事をずうっとガリ版刷りの様なのに、その先生の言われたその話の筋を書いて、ある教会に於いてこう云う様な行き方をしておる教会がある、これは皆んなが是に習わにゃいけん、と言う様な事だったそうです。
 例えばなら此処での、例えばそのーお初穂の、ガラス張り的な会計経理がなされておると言う様な事なんかは、是は言うならば神様を疑うとか、信じないと云う事では出来る事じゃないですね。ならそれからと言うてです、なら私がです疑いを去ってしまって居るかと言うと、そうじゃないと云う事になるんです。何故かとお前は時々不安になる事があるじゃないか、時々イライラする事があるじゃないか。
 時々腹が立つ時があるじゃないか、そしてそのお前はお前が疑うとらんと言うけれど、まだ是だけしかの是だけのおかげしか頂いてないじゃないか、と云う事になるのですよ。だからいよいよもっと、いよいよ神様を信じて疑わない、こりゃもう限りない事になりますね。皆さん私し今日の御理解はそう言う意味で、内部からでなくて外部から解らせて貰うと云う事です。言うならば自分の頂いておるそのおかげを見て神様を信心ておる程度、自分の心に感じれる。
 それには先ずならこの天地金乃神様はどう言うお方か、金光大神様と言う方はその天地金の神様から、どう云う御信任を受けられた方か、その金光大神様の言われる事を、私共が守らして頂く所から成程、成程と合点の行く信心又はおかげが頂けて来る様になると云う事。
 如何にも疑いを去れよと言うがね、例えば迷いが起こってる、あぁこんな事ではいかん、こんな事ではいかんと、頭を打ち振って言うならば疑いを払うて行くと言うとするならばですよね、本当に信じよう信じようと努力しておる言うだけであって、まぁあだ本当な確信に満ちた、疑いを去った信心ではないと言う事です。
 一遍自分をお広前と一つまあ言うならば縁を切って、そして自分一人で神様を思うて見ると、もう愈々それは哀れな位に神様を信じて無い事がわかるです。日々お取次を頂いて、日々御教えを頂いて心の中に今迄の思い違いやら、信ずる力が少し宛で出来おる様ですけれども、実際その働きを切ったら、それこそ哀れな位に、私共の信心はもう宙天ぶらりんに迷うてしまう事でしょう。
 昨日喜代司さん(石井喜代司氏)が発表しとりましたが、もう何回か前のおかげの泉に、親先生が身凌ぎの信心と云う事に就いて、お話になっとられる中に、身凌ぎとは自冶の精神だと言うておられる、と云う事を話しとりました。自冶と云う事は、自ら冶める精神と云う事でした。身凌ぎと云う事は、自治の精神だと身凌ぎの信心をする様になれと、教主様が仰っとられる。
 身凌ぎの信心とは、我れと我が心が拝めれる、又は我と我が心を自分で治めて行けれる。惟は神様を信じて疑わないと云う所からしか出来るこっちゃありません。神様の働きを信じておる、だからどう云う場合に直面さして頂いてもです、何時も安らぎの一線上に出て行く事が出来る。
 心が安らぐそれは神様を信じておるから出来るのです。それが出来ないだからお取次を頂く、お取次を頂くとやれやれと安心が出来る。まあだ自分で所謂、身凌ぎの出来ない証拠。合楽に参られる人達に、あなた方は神様を本当は信じ切っとらんだろうが、疑うとるじゃろう。冗談のごと合楽にお参りする者で、それこそ一人でも神様を疑うとる者は、それは今、今の信者さんならいざ知らずだけれども、まぁ半年一年とお参りさせて頂けばです、もうそれこそ合楽の精神を信じとります。
 親先生を信じております、と皆は言うでしょう。けどもそれを厳密にです今日は研討して見て、なら私くし自身もです、まあ絶対と云うは言葉を使うならばです、絶対信と云った様な物は、まあだ生まれて居ないと云う事。絶対信、そしたらとてもとてもまぁだこん位の事の御比礼ではない、それこそ天地を動かす程しの働きにも継ながって来る様なおかげが現れて来るでしょう。
 その為にどうでも神様を信じて疑わない、疑わんで済む信心を目指さして頂く為に、先ずは自分自身が自分の信用出来れる精進をする以外にはないです、まず肉身の親から信じられる私にならにゃいけません。先ず肉身の子供から信じられる親にならなければいけません。先ず主人から先ず家内から、信じられる主人であり家内にならなければいけません。そこにです神様から信じられる氏子、神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと。
 信じられる言わば氏子にならせて頂く、私を信じて下さい、信じて下さいではいかん。自分自身が言うならまず親から信じられる、まあ言うならば親先生から信じられ、信者から信じられる親先生、はぁ親先生はあげん言いなさるばってん、と言う時にはまだ疑うとる時でしょう。もうあの人ばっかりはもう頼りにやぁならん、と言う時には疑われとる時でしょう。ですからもうあの人は間違いないと信じ信じられる仲を、先ず育てて行く所から、神様に信じられる度合いが段々強くなって行く。
 そこに疑いを愈々疑いを去って行く所の信心が出来て来る。神は声もなし形も見えず疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れよ、有るやら無いやら解らない、先ず自分の心を一つ愈々本気で見極める、言わば自分の心をしっかり取っ捕まえて、それを研討する事。それも仲々捉えにくい、有るやら無いやら実際解らん、解剖したからと言うて、心を摘出して出す事は出来ない。それが心です心、神様でも同じ事疑えば限りはない、形が有る訳ではない声を掛けて下さる訳ではない。
 けれどもです段々自分の心の状態が良くなって来ると、惟が神の声であろう、惟が神の姿だと思えれる様に成って来る、そこから疑わんで神様をそこに見る、そこに聞く事が出来れる信心。そうなった時に私は神様を外す訳には行かないし、信心を止める訳には行かない。止められる筈がない程しの物が出来て来る。そこに私くしは言わばおかげの世界、心に安らぎ所謂自分の心を自分で所謂自冶の精神、自分で自らの心を治めて行けれる、どんな場合も不安がない心配がないと言う様に、冶めて行けれる。
 神を信ずるからであります。それが出来る様になる、それが言うなら信心も見凌ぎ出来る信心になると言う事になるのです。限りない物に取り組んで行くのがお道の信心です。もう本当に絶対神様を信じとる、もう絶対間違いがないがのと、言えれるその言葉やら思いの中をも一遍研討して見ると、はぁまぁだまぁだ本当の物でなかった事に気付かして貰う、気付かして貰うから愈々本当の信心が そこから出来て来るのです。
   どうぞ。